
あまり気持ちのいい話ではないが、ずっと変わらず同族嫌悪というものが自分にはある。
僕が中高生の頃、その象徴とも言えたのが「リア充爆発しろ」のフレーズだった。
イケている人たちに対する軽口によって連帯を図り、反対側で群れて自己実現を成す方法は、僕には彼らが嫌悪するイケている人たちとある意味で同じことをしているだけのように思えた。
当時、僕が違和感を抱いていたのは主に二点ある。
一つは、結局自分たちも群れている点。
既に書いたように、彼らがはじき出され、劣等感を押し付けられたことで嫌悪したはずの存在と同じことをしている。
それは、当然その新たな集団の中でもはぐれものを生むことになる。
自分が一度辛い思いをしたはずなのに、それと同じ思いをする人を再生産するシステムを自ら採用しているということが納得できなかった。
とはいえ、それは当時の話。
今では、そんなことは当たり前で仕方のないことで、別に悪くないし僕が違和感を抱いていた方が了見が狭かったように思う。
人がコミュニケーションにおいて幸せを感じるのは、自分が傷つけられる心配のない集団の中で、気兼ねなく発言でき、それに対して笑いでも討論でも共感でも、何かしらの反応を得られるときだと今は思っている。
したがって、自分が辛い思いをしたというのは関係なしに、というよりはそんな小さな要素ではとても太刀打ちできないほどに、群れるというのは人間社会の自然の摂理として強力なものなのだろう。
もう一つは、彼らが「本当は自分もイケている側にいたい」と願っているにもかかわらず、それを自ら見ないようにしていた点。
これは今でも悲しい防衛本能だと思う。
「リア充爆発しろ」は、リア充になりたい人しか使わない。
それが正面からは叶いそうにないと判断するや、自分は元からそれを求めていないという顔をする。
心情としては理解できるものの、やはり悲しいと表現したくなる。
では、僕が当時どうしていたのかといえば、コウモリのようだった。
どちらのグループとも一定の距離を保ち、ときに近しく接していた。
そうは言いながら、僕も自分を含めた仲の良い三人のグループを基盤としていたので、規模が違うだけで同じだったろう。
三人からははぐれものが出なかった点は良かったが。
僕のグループも周りから見れば、イケていることを諦めたグループに見えていただろう。
ただ、それを自ら「リア充爆発しろ」的な言葉で自嘲的に言及することで先手を打って言い訳するような態度はとらなかったというところだけが、変なプライドだったように思う。
恐らく残念ながら、そういう類のプライドは今も持っている。
みんなが幸せなら、それが一番いい。
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